猫と蝶

蛇口から流れる水と、陶器や金属の触れ合う音。
きっかけは、偶々陽射しが強い日に避難所として此処を選んだだけの事だった。
けれど、思いがけない心地よさに、いつの間にか習慣になってしまっていた。
昼食を食べ終えてからお八つ迄の二、三時間、彼がもたらす静かな音を聞きながら本を読む。
始めはジャンルになどこだわらなかった。
けれど、余りに実学的なものでは雰囲気にそぐわない気がして、
いつの間にか手記や小説を選ぶようになっていた。
読み飽きたと思っていた物語を、十日間繰り返し読み続けた事もある。
「ナミさん、お茶でも煎れようか、」
テリトリーに入っているのは私なのに、仕事中にも関わらず彼は気遣いを忘れない。
真似出来ないと思う。
「今日のお勧めは、」
決まり文句の様になってしまった彼の台詞に、同じくいつもの台詞を返した。
まるで喫茶店の様な遣り取りを、結構気に入っていたりもする。
多分、お互いに。
「ミントグリーンティ。お八つを冷やし善哉にしようと思ってたから。」
彼が好む暑い日のデザートの一つだ。
丁度良く冷やされた、涼やかな匂いと味を思い出して、自然に頬が弛むのが分かった。
「じゃあ、其れでお願い。」
「かしこまりました。」
耐え切れぬように笑みを浮かべ(多分、私も笑っている。)、くるりと背を向ける。
早速無駄の無い動きで作業を始める後ろ姿を何となく眺めた。
暫くして、私も本に視線を戻す。
此の、午後の落ち着いた雰囲気は、お互いの楽しみでもあり、
彼の城であるキッチンは、此の時間だけは私の城でもあった。
其れに水を差されたのだから、多少の仕返しは当然の権利の筈だ。
ドアの向こうに聞こえる無粋な足音に眉を顰める。
只でさえ人数の少ない此の船のクルーは、揃いも揃って個性的だ。
三日もすれば足音だけで人物が特定出来るようになる。
だから、其れが誰であるかはすぐに分かった。
「サンジ君、襟にゴミが付いてるわよ、」
階段を上る足音を数えながら言う。
「え、本当ですか、」
「取ってあげるから、一寸こっちに来てくれる、」
手招きすると、案の定、やたら嬉しそうな顔をして、
「はいー、」
と身を屈めた。
階段からドア迄はおよそ四歩。
彼の襟に手を伸ばしながら、残りの歩数をカウントする。
(四、三、二、)
素早く襟からネクタイに手を滑らせ、思い切り引き寄せる。
「 」
ドアが開いたのと、私が彼に口付けたのはほぼ同時だった
ゾロの表情が、驚きから怒りに変わる。
其れを横目で確認して、唇を放した。
「邪魔したな、」
平生よりも低い声でゾロが呟く。
「気にしてないわ。見られて困るものじゃないし。」
此方に向けられたゾロの背中に言い返す。
ドアが乱暴に閉められる音を聞きながら、自虐的な溜め息を吐いた。
不毛だ。
私が何をしたとしても、其れは精々波風だ。
そんな事を思い知ったからと言って、一体何の為になるのか。
(馬鹿みたい。)
いっそ、そんな事も分からない位に頭の悪い女だったら良かったのに。
「ん、」
何か、足りない気がする。
ドアの方に向けていた視線を、反対側に持っていく。
きょとんと、凡そ此の場にそぐわない顔のまま、彼が固まっていた。
冷たく、匂いも涼しげなアイスグリーンティと甘みを抑えた冷やし善哉。
午後の間食、と言うには少し騒々しいけれど、いつも通りに時は過ぎた。
そして、当然と言えば当然の如く、ゾロは此の場に現れなかった。
寝過ごして食べ損ねる事は何度もあったから、
其の時と同じ様に、彼はゾロの分を寄せていた。
「サンジっ、お代わりっ、」
そんな、何処か不自然な雰囲気に気付く事無く、平生通りにルフィが叫ぶ。
「もうねえよ、」
「何でだよー、こんなんじゃ足りねーって。」
「間食に満腹を求める方がおかしいんだろ、ほれ、夕飯迄遊んで来い。」
「おー、」
言うや否や、小脇にチョッパーを抱えてルフィがキッチンを飛び出して行く。
「俺、日に日に所帯じみてないか、」
開きっぱなしのドアを眺めて彼が苦笑する。
もしかしたら、ルフィは気付いていたのかも知れないと考えを改めた。
「サンジ、」
ウソップが彼を呼ぶ。
「其れ、持っていってやれよ。皿くらい、俺が片付けておいてやるから。」
シンクに置かれた手つかずの一人分を指差す。
ぴくりと、彼の肩が揺れた。
「あー、終わってからで良いだろ、あいつは。」
「ゾロ、起きてたんだ。行っとけ。」
こんな時、ウソップの口調は驚く程明瞭だ。
「……っか、」
小さく言って、彼は何処かおかしな笑顔を浮かべた。
「其れじゃあ、ナミさん、すぐ戻りますんで、」
「ええ、どうぞ。行ってらっしゃい。」
何も言えない。
罪悪感なのだろうかと思った。
何に対してなのかは分からないけれど。
彼が階段を降り切った事を足音で確認すると、ウソップが真っ直ぐに此方を見た。
「お前、何か知らねーか、」
「何をよ、」
「あいつら、何か変だろ、」
「……」
誤魔化す様にグリーンティに口を付ける。
「だってよ、ゾロ、起きてたんだぜ、寝過ごすんだったらいつもの事だけどよ、」
「男部屋にいたの、」
「ああ、行こうっつったら、行かねーって。」
「ふうん、」
あの無神経でもそんな事があるのかと無責任に感心した。
「何があったか知らねーか、」
「キス。」
「は、」
唐突な私の言葉にウソップが固まる。
「私が、ゾロの目の前で、サンジ君にキスしたの。」
区切り毎にウソップの頭の中が真っ白になって行くのが分かる。
「うわあ、」
棒読みの返答は、此の状況に妙にしっくりしていた。
「何だ、お前ゾロの事好きだったのか、」
「は、どうしてそうなるのよ、」
「当てつけじゃねえのか、」
「何で、其れでゾロを怒らせなきゃならないのよ、」
「だってお前、ひねくれてるし。」
殴れと言っているのだろうか。
「其処まで酷くないわ。」
「ふーん、」
「冗談じゃないわよ、あんな筋肉達磨。」
憎々しげに頬杖をつく。
ふむふむ、等と言いながら、ウソップが腕を組む。
そして、かくんと首を傾げた。
「って事はサンジの方か。」
さぞや、意外だろう。
自分でだって、気付いたのはごく最近だ。
其れからは完璧に隠してきた自信がある。
すると、ウソップの首が更に曲がった。
「何処が良いんだ、」
「……言うわね、あんた。」
彼に好意を寄せている人間の目の前で。
「あ、いやそう言う意味じゃねーよ。純粋に、何処に惚れたんだろうなと思ってだなあ、」
面白い位にウソップが慌てた。
彼の報復でも恐れたのだろうか。
「そうね、」
ふと、彼の事を思い浮かべる。
自然に笑みが浮かんでしまうから重症だ。
「手が、一番好き。あと、笑った時の空気。」
ふーん、とウソップが視線を宙に泳がせる。
「分かんないでしょ、」
「何となくなー、其れにしちゃ、普段滅茶苦茶適当にあしらってないか、」
「アレに惚れた訳じゃないもの。」
「成る程ね。」
「アレはアレで可愛いんだけど。」
「……実は重症だろ、お前。」
「だからこんな事になっちゃったんでしょう、」
「……って事は、一応反省してんだな、」
「まあね、」
悪かったかも、とは思っている。
「此のままだと困るよな、」
「……分かってるわよ。」
自分のした事は自分で片付ける。
其れが出来ない程子供じゃないし、其処まで卑怯にも慣れない。
悟った様なウソップの顔に腹が立って、テーブルの下で其の足を蹴り飛ばした。
夕食の準備が始まったのを見計らってゾロを探した。
あれから状況は全く変わらなかったらしい。
物凄く不機嫌そうな顔をして、甲板の壁により掛かり、目を閉じていた。
足音に僅かに反応したから多分起きている。
「隣、座るわよ、」
答えないゾロを無視して、隣に腰掛ける。
あくまでも無視の姿勢を崩す気は無いようだけど、此方を意識しているのは分かる。
だから、黙殺された時は其の時だ、と腹をくくる様に一つ、息を吐いた。
「悔しかったのよ、」
意外な言葉だったのだろうか、漸くゾロが目を開ける。
「だって狡いじゃない、サンジ君と初めて会った時、あんたなんて此っぽっちも眼中にされてなかったのよ、」
ぴくり、とゾロの眉が動く。
「其れなのに、いつの間にこんな事になってるのよ、件の事以外何にも興味なさそうにしておいて。」
「子供か、お前。」
ゾロの言葉に、何かが音を立てて壊れた。
「何よ、あんただって似た様なものでしょう、あの程度の事で何拗ねてるのよ、一々波風立てられてんじゃないわよ、」
全部、腹の中に溜め込んでいた事だ。
けれど、言葉を止められないのは、其れが理由じゃなく、
泣いてしまいそうだったから。其れだけだ。
「何でそうなのよ、中途半端な期待させないでよ、馬鹿みたいじゃない、」
ゾロは一言も返さなかった。
狡い。
堪えきれなかった涙が一筋、流れた。
其れ以上、我慢する事が出来なくて、立てた膝に顔を伏せた。
ゾロは露程も表情を変えなかったし、指一つ動かさず、また、一言も話さなかった。
実際、私は恋敵に慰められる程、単純でも純粋でもなかった。
泣いたら、少しだけ吹っ切れた。
吹っ切れたら、少しだけ視野が広くなった気がした。
馬鹿みたいだ。
「あんた、先刻のあれ見てどう思った、」
「……」
そうしたら、分かってしまった。
ゾロが何も言わなかったのは、狡いとか、そう言うのではなく、
「都合が悪くなると無視するのって、オヤジ臭いわよ。」
案の定、ゾロが嫌そうに口を開いた。
気にしていたのだろうか。
「別に、何も思っちゃいねーよ。」
「だったら、何で先刻来なかったのよ、」
「寝過ごしただけだ。」
「嘘。ウソップが言ってたもの。起きてた、って。」
「いつものホラだろ。」
「あいつが本当らしい嘘を言う訳無いじゃない。」
「甘い物は嫌いなんだよ。」
「生クリームが嫌いなだけでしょう、他は結構な甘党だったわよね。」
「……」
「未だ誤魔化すの、言っておくけど、口で私に勝とうなんて不毛も良い所よ。」
漸く、ゾロが諦めた様に舌を打った。
「別に、本当に何も思っちゃいねーよ。」
「じゃあ、何で来なかったの、」
「考えてたんだよ。」
ゾロの言葉に、少しだけ驚いた。
「あんたも考えたりするんだ。」
「失礼極まりねえな。」
「……ゴメン。」
そうか、ゾロも考えたりするのか。
そう言えば、当たり前の事だった。
「ねえ、あんたは、サンジ君の何処が好き、」
先刻ウソップにされたのと同じ質問をした。
再び、ゾロが眉を顰める。
「ほら、先刻も言ったけど、私を誤魔化そうなんてあんたじゃ力不足なんだから。とっとと言っちゃいなさいよ。」
「別に、何処も。」
案外呆気なく返された答えは、思っていた通り素っ気ないものだった。
けれど、多分ゾロが言っている事は嘘じゃない。
分かっていないだけだ。
「馬鹿じゃないの、」
「うるせえな、先刻から一々、」
「そう言うときは、全部、って言っちゃえば良いのよ。」
「あーそうかい。じゃあ、お前はどうなんだよ。」
思いがけないゾロの切り返しに、ふと、空を見上げた。
自然に、頬が弛む。
「そうね、」
『別に、何処も。」
多分、私は大丈夫だ。
ちゃんと笑えている。
立てた膝に手をついて、勢いで立ち上がる。
「良い事、今の内にはっきり言っておくわよ。」
斜め後ろのゾロを見下ろす。
「私は、サンジ君が好き。あんたからサンジ君を奪う為なら、あんたをサンジ君から奪ったって構わない位。」
「矛盾しまくってねーか、」
「知らないわ、そんな理屈。覚悟しておきなさい。」
本当に、馬鹿みたいだ。
こんなのをライバル視していたなんて。
そう言ったら、ゾロが「嫌み言いに来たのかよ、」と舌を打った。
本当に、何てもう、
「そうよ、今頃気付いたの、」
格好悪い私なんて、冗談じゃない。
風が吹いた。
其の先に、夕日になりかけの太陽が見えた。
「そう来たか、」
「ルフィ、どうした、」
「何でもねえ。いーか、サンジ、」
「……何だよ、」
「俺は、お前にだけは絶対負けてやらねえからな。」
「……だから何の話だよ。」
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