17.君は誰







 二限が始まる迄後十五分、きっかりぎりぎりに家を出て、百メートル程。
 突然、雨が降り出した。
 我慢出来る程弱くも無く、にわか雨と見做せる程強い降りでも無い。
 ついて居ない、とゾロは舌を打った。



「ゾロ、傘忘れてんぞ、」
 講義が終わり、早々に席を立ったゾロに、斜め後ろからウソップが声をかけた。
「ああ、悪ィ、」
 登校中に買ったビニ傘は、ビニ傘の特性なのだろうか、室内に入って二時間近く経って尚堂々と濡れて居る。
 其の感触に眉を顰めた。
「駄目だぜ、ビニ傘は。忘れ易いし壊れ易いし、何よりすぐにパチられる。傘的には三重苦だ。」
「前のやつが壊れたんだよ。」
「仕方ねえなあ、」
 ウソップが仰々しく息を吐く。
 一寸貸せ、と言う言葉と共に、受け取ったばかりの傘がウソップの手に戻った。
 其のまま席に戻り、此方に背を向けたまま数十秒、
「ほらっ、」
 先刻のままにしてあった掌に、ぱしん、と傘の柄が帰って来た。
「…………。」
 其の柄に、此れ以上無く威風堂々と書かれた自分のフルネームに、ゾロは顔を歪める。
「俺様がアーティスティックに記名してやったからな。此れで少なくともパチられる可能性は激減だ。」
「……有り難うよ。」
「今日、一限からの奴等、傘持ってねえからなぁ。感謝して気を付けろよー、」
 胸を張るウソップに対して、ゾロは他に返す言葉を持たなかった。
 無論、良い意味でである筈も無い。
 全く、ついて居ない。



 盗難の危機から逃れた筈のビニ傘は、三限が終わる頃には見事に盗まれて居た。
「……ウソップの野郎。」
 言った所で状況は何も変わらない。
 其の事実に腹が立って、ウソップの野郎、もう一度呟いた。
 取り敢えず、未だ暫くは、良い。
 学内の移動は屋外も含まれて居るものの、其れ程距離が在る訳でもない。
 問題は其の後だ。
 一時間半後に迫った其れに、ゾロの気は重い。
そしてそう言う日に限って、課題図書付きのレポート課題が出されたりするのだ。
 もう、矢でも鉄砲でも持って来い。
 ゾロは本心でそう思って居た。



 はあーーー。
 何とか大した被害も無く、大学最寄のコンビニに駆け込み、盛大にため息を吐く。
 目の前には、晴れの日よりも割高になった様に見えるビニール傘。
 一日で二本消費、の事実に頭が痛くなる。
 しかし、どうにも此の辺りには大型の店が少なく、布の傘を買いに行くのにも此れが一本、必要になる。
 バイト代が出る迄の日数を数えて、うんざりした心持になった。
「傘、無いんですか、」
 と、後ろからかかった声に振り返る。
 此方の表情に驚いたのか、(少なくとも其れ位にひどい形相である自覚はある。)少しだけ見開かれた青い目が有った。
「あァ、まあ。」
 次はどんな災難だ、と覚悟を決める。
 どの道、今日は碌な事が起こらないのだ。
「じゃあ、どうぞ。使って下さい。」
 腹を括ったばかりのゾロに、傘を持った手を差し出して彼はにこり、笑った。
「は、」
「ああ、いや、俺の家、もう此処から見えてるんですよ。ビニ傘、家に溜まるのも嫌だし。どうぞ。」
 窓の向こう、恐らく其のどれかが彼の家なのだろう、其れを指差しながら、彼が言う。
「や、良いですよ。悪いし。」
 例え厚意と分かって居ても、遠慮を知らない子供ではないのだ。
「どーぞ。本当に、要らないんですよ。どーせ此れ、」
 そう言って、彼は悪戯じみた笑みを浮かべる。
 ほんの少し、声を潜めて、
「先刻、パチった傘なんで。」
 成る程、そう言う事か。
 傘をパチるのが良い事か悪い事は此の際無視するとして、パチったらパチったで御役御免の傘は結構邪魔なものだ。
 ならば遠慮も要るまい、と、ゾロは其の厚意に甘えた。
「じゃ、有り難く。」
「イエイエ。」
 受け取る時に掠めた彼の指先は、雨に濡れたゾロの手にはとても暖かく感じられた。



 車道を突っ切って駆けて行く彼の背中を見送りながら、
 世の中は悪い事ばかりでは無いなあと、腐れ縁の友人共に言わせれば、此の辺りがおっさん通り越してじいさん臭いのだ、そんな事を思って居た。
 何の気無しに、貰い物の傘を見る。



 ロロノア=ゾロ



 其の柄には、何とも言えず馬鹿の様な筆跡で、どうにも見覚えのある名前が書かれて居た。






「…………にゃろう。」



 そうして彼等が始まったとか始まらなかったとか。





 ア マグノリア オン サーズデイ