酩酊砂丘

とても其れ所ではない彼女に声をかけたのは、少し気を紛らわせてやりたかったから、
というのもあったのかも知れない。
死ぬ心配は無いとは言え、一夜明けた今もルフィは目を覚まさない。
自分達はいい加減慣れてしまったが、優しく、そして心配性な王女には酷な事の様に思えた。
「一寸、良いかな、」
僅かに抑えた声にビビが振り返る。
ドアを指差すと、彼女は思ったよりもしっかりした声で、
「ええ、」
と答えた。ビビを先に通し、部屋の外に出る。
「どうかした、」
小首を傾げる仕草を、可愛いと正直に思いつつ、ドアを閉めた。
「厨房、使わせてくれねえかな、」
「え、ええ。別に構わないけど、大丈夫、」
確かに、立っている位であれば何ともないが、決して軽くない怪我の為、動くのは少ししんどかった。
包帯だらけの自分を見れば当然の言葉ではあったが、今の彼女に余計な心配をさせた事を済まなく思った。
「給仕の人もいるから、無理に動かなくても…」
「ああ、大丈夫。あいつ等も流石に参っているだろうから、慣れたもの食った方が良いし、
其れに、俺もそろそろ料理したくなってきて。」
実際、二日しかたってねえんだけど、と付け加えると、
「そうね、私も、何日も食べてない気がする。サンジさんの料理。」
そう言ってビビは笑う。
「待ってて、聞いてくるから。」
「悪いね、」
「気にしないで。…あ、其れなら、メニューは私のリクエスト、聞いてくれる、」
秘密事を楽しむ様な其の表情を見る限り、少なくとも表面的には普段の明るさを取り戻した様だ。
別に、年中笑っているべきだとは思わないけれど、大丈夫だと分かっているものにまで表情を曇らせる事はない。
狙いが上手くいった事を喜びながら、小走りで駆けて行く後ろ姿を見送った。
其れでは、部屋の中で待とう、とドアに手をかける。
しかし、此方が力をかける前に、ドアは勝手に開いた。
「ゾロ、」
驚いて手を放す。すれ違いに中に入ろうとしたが、引き留める様にゾロの手が此方の腕を掴んだ。
「何だよ、」
睨んだゾロの表情は、何故か此方よりも余程怒っているように思えた。
「相変わらずだな、お前は。」
「はあ、何言ってんだ。とにかく、手を離せ。」
ゾロが掴んでいるのは右の二の腕。其処には、不本意な傷があった。
確か、マスカラだ。
一体、どういう理屈でマスカラが飛ぶのか、
其れ以前にマスカラが外れるとはどういう事なのか、
其れは置いておいて、とにかくマスカラが飛んできて、切られた。
料理人にとって、舌と同じ位大切な、利き腕を。
状況が状況だっただけに、特に気にしてはいなかったが、痛くない訳ではない。
だが、ゾロは手を放すどころか、更に力を加える。
「痛、」
たまらず小さく呻いて、空いている左腕で無理矢理ゾロの手を引き剥がす。
「何しやがる、」
「其れで、マトモなもんが作れるのかよ、」
「何、立ち聞きしてんだ、」
「手前にとって、飯作るのは絶対の事なんだろ、」
「だから、何だよ、」
ゾロの言葉を聞きながら、何故か、怒りがこみ上げるのを感じた。
「逃げ場に利用してんじゃねーよ。」
きっと、図星をつかれる事を知っていたからだ。
だから、其れ以上の反論は出来なかった。
口先だけなら幾らでも出来た筈なのに。
「あの鳥野郎か、」
其の一言だけで、其の時の光景が恐ろしくリアルに蘇る。
爆弾を持って、上空を目指し、
あの男は笑っていた。
其の数秒後の大爆発よりも、其れでも止まらなかった戦争の狂気よりも其れが、衝撃だった。
其れでも、一時は忘れていたのだ。そんな場合ではなかった。
だが、周りを見る余裕を取り戻して、思い出した。
「人の事言えねーだろ、お前は。自分だって似たような事し続けてんじゃねーか。
他人の事でいちいちヘコんでんじゃねえよ。」
真っ直ぐに此方を見るゾロの視線が、痛い。
「…別に、逃げてるわけじゃねえ。」
其れでも、負ける事だけは許せなくて、言葉を押し出す。
「大した事ねーよ、こんな傷。大体、言われなくたって分かってんだよ。
俺は、自分で自分の感情持て余してんだ。だから、手前で片付けようとしてんじゃねーか。
余計なお世話だクソ野郎。」
苦しい言い訳だ。
実際、ゾロの言う通りなのだ。ゾロに言われて初めて自覚した時点で明白だ。
だが、其れを肯定したら終わりだと思った。
だから、自分の中で無理矢理解決させた。
其れでも、言った事も嘘ではない。
「そうかよ、だったら、一つだけ教えといてやる。」
ゾロが此方に顔を近付けた。
「少なくとも、あの鳥は勝利者だ。見方によっちゃな。」
其れだけ言うと、反論も質問も許さずに、ゾロはドアの向こうに消えた。
「何が言いたかったんだ、」
呟く背後に、ビビの足音が聞こえた。
軽やかな足音に、何故か、あの、鳥野郎の笑みの理由が分かった気がした。
時間と空間のない世界では全ての人間は一体である。
其の世界に於いて、犠牲とは最大の勝利であり栄光である。
| 最後の二行は、アメリカの神話学者の言葉より、拝借しました。 分かるような分からないような説です。 |