20.モノクロ







「歌う島」


 其れ迄海図に向かって居た顔を上げ、ナミが聞き返した。
「……だ、そうよ。」
 ロビンは身に付けて居た防寒具を脱ぎながら頷く。
 寄航した島は、其の雰囲気、(例えば閑散とした、田園的な、田舎じみた、一番はっきり言うならば、寂れた)には似合わず、やたら大勢の人で賑わって居た。
 立派な畦道(此れでも、航海士は充分、気を遣った)には無理矢理立てられた出店が並び、船長を喜ばせた。
「グランドラインじゃなかったら唯の眉唾ね、」
 理論は常に、より絶対的な、言い換えてしまえば冗談みたいな理論によって覆される。
 空島を肯定したグランドラインの自然科学の中では、島が歌うなんて幾らでも説明できてしまう。
 途中の海図を端に寄せながらナミが言う。
 ロビンも微笑で其れに答えた。


「歌う島、」
 品定めして居た大振りの柑橘類を片手にサンジが聞き返した。
「ああ、だからこんなお祭り騒ぎになって居るんだよ、」
 苺のへたを取りながら果物屋の主人が答えた。
「……って事は、年中歌って居る訳じゃねえんだな、」
 洞窟とか特殊な形の山に風が吹き込んで天然の楽器になる、と言う当たり障りの無い予想を立てて居たサンジが目を丸くする。
 店主は人好きのする笑い顔のまま、
「ああ、一年で一日だけ。此の日って決まって居る訳じゃないんだが、多分今日だろうなあ。」
「ふうん、」
「今日はやけに寒いだろう、此処は夏島だから、こんな日は一年で一日だけだ。だから分かる。」
「そうなのか、道理で品揃えの割りに気温が低いと思った。しかし、冬が一日だけって言うのも羨ましいのか微妙だな、」
「ん、」
 店主がサンジの言葉に首を傾げる。
 直ぐに、ああ、と気付いて、
「違う違う、此処の冬はもっと暖かいよ。歌うのは、此の島じゃない。」
「近くに別の島があるのか、」
「ああ。今日、一年に一度だけの春と夏と秋を迎えるんだ。」
 其れが歌と関係する訳か。
 ふむ、と頷いた後、ああ、そうだ。と店主の手を止めた。
「其のへたを取る前の苺。残り全部売ってくれ。」
 今度は店主が眼を丸くした。
「取らないままの方が欲しいのか、変わって居るな、」
「俺達の船には頭から草を生やした奴が居てな。ヘタを取っちまうと自分の仲間が居ねえって落ち込み出すんだよ。」
 全く、苺の売り方一つでも文化は随分違う。
 適当な返事をしながらそんな事をサンジが考えて居ると同時に、店主が人種の奇跡を感じて居た事は想像に難くない。


「歌う島、」
 大量の苺のへたをボウルに盛るとお前の頭に実に良く似て居る、と限りなく不必要な報告を受けた後、ゾロが聞き返した。
「何だそりゃ、」
「俺にも良く分からん。」
 不遜な態度でサンジは煙草の煙を吐き出した。
「近くにあるんだとよ、そう言う島が。」
 空島の鐘みたいなもんかな、無意識に空を見上げ、首を傾げる。
「まあ、其の時になったら分かるか。」
 ゾロを無視して結論付けて、ジャケットに入って居る懐中時計を取り出した。
 店主が言った歌の予想時刻迄後一時間を切って居る。
 大体だ、と店主も付け加えて居たので、もう既に歌い出しても良い時刻だろう。
 出来る事ならナミかロビンと遭遇したかったが、港迄の道のりを考えても、相当な幸運が無い限り難しい。
 まあ、仮にも……な訳だし(とっさに考えたので丁度良い単語が思いつかなかった)、問題ないか、と己を納得させて居た強がりは、本気で興味が無さそうな欠伸によって打ち砕かれた。
 よりにもよって。
 島が歌うなんて結構良い感じのシチュエーションを共に迎えるのが此の男とは。
 未だ残りの阿呆共の方が良かった、奴らは海の男の浪漫的思考を共有出来る。
「どうした、」
 はあっ、と深く溜息を吐くと、ゾロが眉を顰める。
「べえっつに。」
 煙草を咥えたままの篭った声で返す。
 何だかなあ、
 空は此の海域に入ってからずっと晴れて居る。
 やけに寒い、と店主は言って居たが、此処の生まれではない人間からすれば涼しくてむしろ快い位の気温だ。
「なあ、」
「何だよ、先刻から。」
 ポツリと呼びかけた声に、其れ程悪くも無い口調でゾロが答える。
 うむ、と其れに眉を顰めた。
 実を言えば何も考えずに発した声だったから、返答があったらあったで困るのだ。
 いや、考えて居なかった訳じゃない。
「どうしようもない。」
 全てが其処で堂々巡りしてしまうから、いつまで経っても答え迄辿り着けない。
 サンジの答えにゾロも顔を顰める。
 ひゅう、と風が吹いた。
 其れ迄吹いて居た風よりもずっと冷たい。
 周囲を歩く人々が短く歓声を上げ、直ぐに静まり返った。
 つられる様に風の吹き付ける方向を振り向く。


 波の音とも風の音ともつかない。
 唯、
 息を呑んだ。


「歌う島、」
 其の日の夕食の話題は当然の事、島の「歌」だった。
「ええ、絶対零度、って知って居るかしら、」
 デザートの氷菓をスプーンで切りながらナミが言う。
「ええと、あれだよな、マイナス三百度位。」
「正確に言うと、摂氏マイナス二七三コンマ一五度。全ての物質が凍るとされて居る温度よ。」
 ウソップの答えに頷く。
「あくまでも、されて居る、温度。理論上、其の温度に近付く事は出来ても、到達する事は不可能と言われて居るわ。」
 当然の様に、ナミとロビンを除いた全員が、実際に、あるいは心の中で首を傾げた。
「其れと島が歌うのとどう関係あるんだよ、」
 代表して疑問をぶつけたのは先刻の問いに答えたウソップである。
「此処からが、いきなり眉唾なのよ。」


 今、寄港して居る島の近く、あるいは遠くに一つの島がある。
 だが、此の島の誰も其の正確な位置を知らない。
 方角が予想されて居るだけで距離も分からない。
 何故なら、其の島は一年の殆どが絶対零度、
 で、あれば、近付く事はおろか、眼に見える位置に居るだけで人間など簡単に死ぬ。
 だからこそ、島はある、と誰もが思って居ても、其の場所を誰も知らない。
 其の島には一年に一度、唯一の春と夏と秋が来る。
 時間にしてほんの数秒、
 其の時、其の島で凍りついて居たものの内の一部、融点が絶対零度に近いものだけが解ける。
 物質であれば、其のまま、数秒後に又訪れる冬によって再び凍る。
 では、其れが動きであったら。
 何もかも凍る島で凍り付いた音は、数秒の春と夏と秋の間に周囲に飛び散る。
 其れが島が歌うと言う事だ。


「なあ、ゾロ、」
 ぽつり、と彼ら以外誰も居なくなったラウンジでサンジが呼んだ。
 火を落としたキッチンは、其れでも仄かに暖かい。
「お前、あの時、…………聞いたか、」
 ぼそぼそと喋る其の声は静まり返って居ても聞き取り辛い。
 其れに気を取られ、発言の気配は追えなかった。
 何をだ、
 聞き返すと、サンジは「うん、」と小さく頷いた。
「あの時、ちゃんと聞こえたんだ。」


「まあ、此れも伝説、って事ね。」
 ナミが結論付ける。
「多分、正体はそんな冗談みたいな島じゃなく、幾つかの気候現象が絡み合って居るだけ。」
「恐らくは絶対零度、と言う概念が出来た時に、誰かがあの現象を其れで説明しようとしたのね、」
 ナミの科白をロビンが引き継ぐ。
「其れが其のまま伝説化したんじゃないかしら。」
 恐らく、此の島の誰もがそんな話を信じては居ない。
 当然だ、何故ならあらゆる方角から船が此処を訪れる。
 其の中に凍り付いた船など一隻も無い。
「空島位の無茶だったら幾らでも肯定して見せるけど、此れは無理だわ。」
 相変わらず分かった様な分からない様な表情の男共を置いたままナミが苦笑する。
「絶対零度なんてそんなものが島になってたら、此の地上の全部がもう凍ってる。」
「音が凍るなんてロマンチズムも、理解出来ない訳ではないけれどね、」
 要するに不思議島か、
 ルフィのお決まりの結論は、実は最強なのだと言う事をナミとロビン、そしてルフィ本人を除いた全員が理解した。


 其れが、何だったのかは分からない。
 でも、確かに聞いたんだ。
 そう言って、サンジは口を閉ざした。
 わざわざ問い掛ける理由も無い、と、放って置いて暫く経ってから、
 サンジが小さく口ずさんだ。
 言葉であったとして、其れの意味するものが何なのか、
 音であったとして、其れは音楽なのか歌なのか其れとも唯の音階なのか。
 だが、其れは確かにゾロの記憶にも存在した。
「俺も聞いた、」
 だから其のままを答えると、サンジは口ずさむのを止めて「そうか、」と笑った。
 其れは意味を伝える術を失っても確かに言葉であったし、
 唯の音階に過ぎなくとも音楽であり歌だった。
「なんだ、」
 何かに吹っ切れた様にサンジが声を上げて笑う。
 其れ程張った声ではなかったが、妙に晴れ晴れとして居た。
「どうしようもねえ、」
 昼間と同じ、しかし、随分込められた意味が違う様な気がする其の科白を、
 理解は出来なかったのに何故かすとん、と体の何処かが肯ずる。


「なあ、ゾロ。」
 お前、もし俺の見てない所で死ぬんだったらさ、
 其の時は取り敢えず、一回で良いから俺の事呼んでおけよ。


 言葉にしろ歌にしろ何にしろ、
 人が発する音の意味など、きっと其の程度だ。





 絶対零度