29.おかえり







 今の王になって、十回目の夏が来た。
 取り立てて賢い訳でもなかったが、だからと言って愚かでもなかった王は、小さな島には充分な実りをもたらした。
 決して特別強くも豊かでもない此の島は、其れでも真面目で明るい島民達によって、そして王の手によって年を重ねた。
 島をぐるりと囲む特殊な海流は、島民には豊かな幸を、外敵には大きな障害を与えたし、其れを過信する程、彼等は外を知らぬ訳でもなかった。
 慎ましいけれど、確実に、平穏に時は過ぎたのだ。


 前の王が死んで、十回目の夏が来た。
 何よりも優しく、島民を、此の島に生きるものを愛した王の死は、まるで島の全てを悲しみに染めた。
 しかし、今の王は、自らも彼の死に涙しながら、無為に時を重ねる事を拒んだ。
 だからこそ、島民は新たな王の誕生を喜び、こうして今の王を支えて居る。
 彼は何よりも王と、自分達島民を誇りに思って居た。


 十回目の夏が来た。
 式典を目前に、小さな王宮には珍しい程、慌ただしく動いて居た。
 彼も又、王の側近として、来る日を心待ちに、目の回る様な日々を過ごして居た。
 其処に、王宮の門を叩く者が居た。
 島のものではない、彼はすぐに其れに気付いた。
 いや、気付く迄も無い。
 親から子に受け継がれる経験無しにあの海流を越える者はまず居ない。
 何十年も外の人間を受け入れて居なかったのだから、顔を見れば、其の風貌を見れば、余所者かどうかはすぐに分かる。
 しかし、来訪者はまるで何年も此の島に居たかの様に、彼らと同じ言葉を操った。
 来訪者は其の眉を顰める様に、彼らを憐れむ様な、自らを嘲る様な、彼にしてみればまるで心の内が分からない笑みを浮かべて、
「王は何処だ、」
 そう、彼に尋ねた。
 こんな笑みを彼は知らない。
 何よりも、日々を過ごす事を幸せと知って居る彼等にとって、笑う事と歌う事は其の魂の根源だ。
 そうである彼等は、決してこんな風には笑わない。
 だから彼は本能的に、此の男を王に会わせてはいけない、と思った。
 王だけではない。
 此の男が此の島にもたらそうとして居るものが、良いものである筈が無い。
 帰れ、
 彼は叫んだ。
 けれど来訪者はまるで怯える様子も無く、
「王は何処だ。」
 同じ言葉を繰り返した。


 謁見の間の一番奥、王と言う響きには不似合いな程質素な、其れでも作った人間がどれだけ心を込めたかを感じさせる椅子に、王は座って居た。
 どっしりと構える其の姿に、彼は自らの不安が杞憂であったと感じた。
 此れ程迄に王は偉大で、其れに比べて自分は何て小さいのか、
 彼は自らを恥じ、側近として、自分の成長を願った。
 此の男が一体何を企んで居ようとも、王が居る限り恐れる事は何も無い。
 しかし、来訪者は、王の偉大なる様を気にするでも無く、先刻と同じ、嫌な笑みを浮かべた。
「忘れたか、」
 来訪者が王に言った。
 囁くでも叫ぶでも無い声に、王はほんの少し、眉を顰めた。
「約束だったろう、冬を十回と、夏を十回。忘れたのか、」
 冷てえなあ、
 くすくすと、来訪者は笑う。
「思い出せ、ゾロ。」
 其の目を見て、彼は恐れを感じた。


 王は名前を持たない。
 王は神のものであり、島のものであり、彼らのものである。
 だから、王は王であり、名前は持たない。
 だから、来訪者が言った其の名を彼は聞いた事が無かったし、王も其の眉間のしわを深くした。
「冬を十回と夏を十回過ぎる前、お前はあの男に助けられた。」
 まるで島の巫女達の歌の様に、彼は続けた。
「此の島の上に来たのは、別に此処に用があった訳じゃない。だが、お前は不意の風に捕らわれて、此処に、」
 落っこちた。
 揶揄する様に、立てた人差し指を地に向け、落とした。
「お前は腹に大きな傷を得て、死か生かを彷徨った。あの男が其れに気付かなければ。気付いても其れを幸いとしか見做さなければ。お前は土かこいつ等の腹か、野垂れ死んで居た。」
 一歩、一歩。
 来訪者は王に向かって歩き始めた。
 止めなければならないと、彼は其の腕を取ろうとしたが、ふっ、と水中の魚が逃げる時の様に彼の腕から離れた。
「お前は恩を返す時を待って居たな。そうして夏を一回越した所で、あの男は死んだ。」
 王の目の前で来訪者は足を止め、王の顔を包む様に、其の手を伸ばした。
「あの男には子供が居なかった。」
 顔を近付け、来訪者は笑った。
「お前が言ったんだ。冬を十回、夏を十回。」
 お前の魂は、こんなちっぽけな姿に収まる程小さかったか、
 そら、こんな殻など捨ててしまえ。
 恩返しは済んだだろう、
「忘れたのか、思い出せ。俺を。」
 彼は助けを求める様に王を見た。
そうして、王の唇がなぞった、来訪者の名前を知った。


 びゅう、と一陣の風が吹いた。
 其の行方を追う様に、彼が天を見上げると、



 其処には太陽を覆う程に大きく、偉大な虎の姿と、
 其の背に乗り、虎の毛皮に顔を埋め、悠然と微笑む来訪者の姿があった。
 来訪者の尻から生えた黄金の尾がふわりとなびき、其の姿は何処にも見えなくなった。




 南の花