オーバーグローイング・ツリー





 早朝の、僅かに湿った感じのする空気の中に、ドアノブを回す小さな音が響いた。
 二、三歩分の足音の後、少しの間を置いて、燐寸の引火音、そして、深い溜め息が一つ。
 吐き出された紫煙を掻き消す様な風が、一陣。
 思いの外湿気を含んだ其の風に、考える様な沈黙を挟んで、再び、足音が聞こえた。



 其れは、奇妙な感覚だった。
 薄いシャツの布地越しに、肉が少なく骨張った身体を抱き寄せる。
 拒む事無く此方にしなだれかかった躯は冷たい。
 背中に回していた手を滑らせて、細い割に硬質な髪に触れる。
 髪と同じ様に、其の躯は何処も彼処も細く、固く、そして冷たい。
 其れに煽られた様に、口付ける。
 粗雑に触れた薄い唇が僅かに熱を持つ。
 唇を放し、首筋に顔を埋めた視界の隅で、小生意気な顔が静かに微笑むのが分かった。
 きっと、無様に火照っているであろう此方の躯に、絡まる様に細い腕が触れた。



「……」
 近くに人間の気配を感じ、目を開ける。
 立ったまま此方を見下ろす人影に我に返った。
「お、起きたか。」
 黄色い頭の向こうに見える空は未だ色が薄い。
 いつの間に外で眠っていたのだろうか、取り敢えず、早朝の時刻である事は分かった。
「……何だ、」
 何故かつまらなそうに視線を外したサンジの両手には、大判のビニールシートが握られていた。
 確か、蜜柑用に購入したものだ。
 軽く広げられた其の形を見る限り、シートが活用されようとしていたのは、恐らく自分だ。
「……何だ……、」
 此の男の事だ。どうせ、ろくでも無い思い付きに決まっている。
 案の定、サンジは軽い調子で奇怪な台詞を吐いた。
「ん、もうすぐ雨降るなーと思って。」
 親切親切、と笑う。
 サンジの言葉に、漸く空気の湿り気に気付いた。
 サンジの言葉通り、確かに雨は遠くない。
 数分後か数秒後か、今すぐ降り出してもおかしくはない様に思えた。
 其れは、別に構わない。
 問題なのは、何故、其れで自分にビニールシートか、
 答えは恐らく一つだ。
「つまり、此ひっかぶって雨の中寝てろと、」
 今迄、寝汚さを死体に喩えられた事は何度もあった。
 しかし、事故現場の死体扱いとは、幾ら何でも酷過ぎやしないか。
「濡れるより、少し蒸し暑い方がマシだろ。大体、起こして起きる奴なら始めっから起こしてんだよ。
起きたんならぐたぐた言ってねえで……」
 途中から愚痴の様になったサンジの理屈を、冷たい滴か止めた。
 ぽつぽつと、次第に雨は激しさを増す。
「降って来たな、さっさとキッチンにでも……」
 言いながら向けられた背中を引き止める。
 突然腕を捕まれ、サンジの躯は一瞬、バランスを失った。
「……」
 訝しげな視線を向けられ、自分でも疑問の様なものを感じながら、
 やはり細い腕だと、そんな事を考えていた。



 大粒の雨がビニールシートに当たって独特の音を立てる。
 立てた膝の上に置いた肘に頬杖をつき、雨空を見上げるサンジの表情には困惑と疑問がありありと見て取れた。
 確かに、訳が分からない。
 雨の中で男二人がビニールシートで雨宿りとは、一体どの様な状況か。
 本降りになってしまった雨の為今更キッチン迄歩く訳にもいかない。
 暇を訴える様に、サンジが溜め息を吐いた。
 此の様なおかしな事になってしまった原因は、要するに勢いだ。正直自分にも良く分からない。
 ふと、サンジを見遣る。
 先刻の奇妙な映像が蘇った。
 とても印象的であった筈の其の映像は、目覚めてからの時間に薄められ、断片的なものに変わっていた。
 其れは、例えば真っ直ぐに此方を見つめる右目であったり、触れる寸前の唇の形であったりする。
 だが、其れ等は何故か、普段目にしている現実のものとは微妙に異なる気がした。
 少なくとも、あの映像はどれも全て、身に覚えが無い訳ではないのだ。
 其れにしても、妙なものを見たと思う。
 他に適任はいたであろうに、夢でまで、ああいうものの対象に此の男を選んだ事自体理解に苦しむ。
 自分がそう言う欲求の持ち主であるという回答には、正直辿り着きたくない。
 考えれば考えるだけ、深みに嵌っていく気がした。
 元々、考えるとか悩むとか、そう言う事には向いていない脳味噌なのだ……
「 」
 取り留めもなくなってきた思考を、振動が遮った。
 見れば、サンジが此方の左肩に頭を預け、寝息を立てていた。暇が極限に達したのだろうか。
「……」
 少し、驚いた。
 こう言う時に先に寝に入るのは、多々にして自分の方だ。自分で言い切ってしまうのも、どうかと思うが。
 暇を持て余すタイプなのだろうか。そう言えば、此の男は一日中動き回っている気がする。
 妙な感じだ。
(何だってあんな夢……)
 理解出来ないと言う事に段々といらいらを感じ始め、頭を掻く。
 其の動きに居心地の悪さを感じたのか、サンジが寝惚けた声を出した。
「……」
 動かした視線の先に、サンジの手が見えた。
 何となく、其の手首を掴んで引き寄せた。
(細え手だな、)
 先刻もそう思った。
 別に、女の様だと言う訳ではない。
 ただ、細い。
 大きさ自体は自分と大差無い。掌と指の割合が多少違う位だ。
 だが、印象は随分違う。
(何やってんだ、)
 我に返って、サンジの手を元に戻した。
 先刻から、どうもおかしい。
 そう思いながら、思考は勝手に進んで行く。
(俺は、こいつにどう思われてんだろうな、)
(……だから、一体何やってんだ、俺は。)
 畜生、と、もう一度あの映像を呪った。



「 」
 左肩に掛けられていた重みが僅かに変化した。
「んー……、」
 サンジはゆっくりと体を起こしながら、一つ欠伸をした。
「お、悪い、肩借りてたか、」
 滲んだ涙を手首で拭いながら、寝起きの低い声で言う。
「どれ位寝てた、」
「十五、六分だろ、」
 時計を見ていた訳ではないから、半ば当てずっぽうで答えた。
 サンジはもう一つ欠伸をして、
「止まねーなあ、」
 雨を降らせ続ける空を見上げた。
 其れから、呼吸三回分程の時間を置いて、突然の突風が吹いた。
「 」
 大きな音を立てて、風にあおられたビニールシートを、二人同時に掴む。
 飛ぶ力を失って、ビニールシートは甲板に落ちる。
 そして、無言のままの二人に大粒の雨が降り注いだ。
「……」
 呆然と雨の音を聞く。
 暫くして、諦めた様にサンジが笑った。
「仕方無えな、」
 そう言って、立ち上がる。
 中途半端な姿勢で眠った為に凝り固まった躯を伸ばし、息を吐く。
 其の次の瞬間のサンジの表情に、何か、分かった様な気がした。
 立てた膝に手を突いて立ち上がり、サンジに近付く。
 其の気配に、サンジが振り返った。



 雨雲は風に流され、小降りになった雨の向こうに太陽が覗いた。
「止んだな、」
 今更、言えば分かる様な事を呟く。
「……そうだな、」
 小さく返したサンジの頬は、雨に打たれた直後であるのに僅かに朱に染まっていた。
 其れは、ずっと見ていなければ分からないと言う程度の変化であったけれど。
「……片付けるか、」
 ぎこちなく、ビニールシートの端を持ち上げる。
「……そうだな、」
 先刻とまるで同じに答えるサンジも、何処と無くぎこちなく見えた。



 ビニールシートの両サイドを其れぞれが持って、同時に表面の水滴を飛ばす。
 飛ばされた滴が、日の光を反射した。
 其の横で、カチャ、とドアが開く。
 ドアを開けた姿勢のまま、ナミがきょとん、と此方を見た。
「……何してんの、そんなもの広げて、」
 さて、どう答えたものかとサンジの方を見る。
 サンジも、同じ様に此方を見ていた。
 思わず、同時に吹き出す。
 怪訝そうなナミに構わず、笑った。



 全ては、雨上がりから始まる。



原案はかなり昔です。高校三年の初春。
……勉強に疲れた頃だった様な。
改めて書くに当たって、彼等の関係がゾロの夢の中だけのものなのか、事実なのか、
どちらにするかでかなり迷ったのを覚えています。