楽園

東シナ海は空より深い
足元浸す永遠のモイスチア
一陣の風が吹いた。
一斉に鳴り出した木々の音に、うっすらと目を開ける。
はっきりとしない頭で、
(緑臭い…)
と呟く。
其れが何となく特定の人間を連想させて、ふ、と息が漏れた。
しかし、頭は未だまともに働かず、其の為か四肢も思う様に動かない。
唯一思い通りになる目だけを頼りに、自分の状態を確かめた。
密林、と言う程ではない。熱帯雨林とでも言えば良かろうか。
其れ程暑くは感じないが、湿度は高い。
恐らく、気温が低いのは一時的なものであって、本来は高温多湿な地域なのだろう。
しかし、一体、どの様な経緯があって自分が此の様な森の真ん中で倒れていなければならないのか。
件の緑色の剣士でもあるまいし、こんな所で眠る事が出来る様な神経は持ち合わせていない。
僅かに後方に身動ぐと、頭に木の幹が当たった。
其れを頼りに、ずり上がる様にして上半身を起こした。
其の動きに、後頭部に鈍い痛みを感じた。
(打ったな、)
其れ位は感覚で分かった。此が原因で気絶でもしたのだろうか、
(情けねー…)
自分でも、呆れた。
痛みのする辺りに手を遣ると、乾きかけた血の感触がある。
だが、決して其の量は多くいないし、傷自体は治り始めている。
問題は、貧血の様な目眩と頭痛だけか。
だけ、で済ませて良いものではないかも知れないが。
「 」
ふと、足元に目を遣る。
投げ出したままの左足首に、二、三重に蔦が絡まっていた。
色は未だ明るく、質感も柔らかい、細く、若い蔦である。
だが、どれだけの間気絶していたのかと、薄ら寒い心地がして、右手の爪を見た。
職業柄、定期的に爪を切り揃える癖を付けていたので、大まかな予想をつける事は出来る。
(二日目、…って所か。)
一拍で済んだか、と安堵の溜め息を付く。
と、其の呼吸に連動したかの様に腹の音が鳴り響いた。
(…ビンゴ。)
腹に両腕を回し、膝を立てて其処に額を落とす。
「痛…、」
其の衝撃でぶり返した頭痛に少し、後悔した。
小さく呟いて、其のまま、目を閉じる。
恐らく、時間にすれば数分の間であっただろう。
そう言えば、先刻の一陣を除いて全くの無風状態である事に気付いて、目を開ける。
暑い、が、ひんやりと湿った空気に眉を顰める。
(来るな、こりゃ。)
殆ど根が露出していない地面を見れば、此の土地の気候はすぐに分かる。
(此の状態でスコールってのは…流石にきつい。)
全く、運が無い。
大体、こんな所で訳も分からず気絶していた、と言う時点で運が皆無である事は明らかなのだが。
其処まで悟ってしまうと何だか逆らう気も失せてきた。
頭は膝の上に乗せたまま、限られた視界をぼんやりと眺めた。
焦点は定めずに、ぼやけた映像を其のままに近くする。
此の様な状態でも基本的に冷静でいられる、というのは、
自分が経験してきたものの成果なのだろうが、必ずしも良い事だけでは無い様だ。
どうにも、危機感が湧いて来ない。
無意識に、足元の蔦に手を伸ばす。
其れを取ろうとした所で、其の気も失せて、止めた。
目を閉じて、深く息を吐いた。
どうしたものかと思いを巡らす。
一体、どの方角から来たのか、
せめて此の森を出れば、又状況も変わるのだろうが、
森の大きさも分からない以上下手に動く事は出来ない。
何か思い出せないかとはしてみるが、
頭の怪我か、長時間の気絶の所為か、肝心な所の記憶がすっぽりと抜けていた。
(島に着いて、)
(見た所無人島みたいだったから、)
(肉でも果物でも何か食料になるものは無いかって…)
森に入ったのだろう、多分。
そして、其の途中で何かがあって、こうなったのだろう、多分。
(ジャケットも無いし…)
小一時間で戻る予定だったのだろう、煙草と燐寸が手元に無い。
普段はジャケットに入れたままにしているから、暑いからとまとめて置いて来たのだろうか。
(何から何まで、ナイス判断、俺。)
煙草が無いと分かると、無性に腹が立ってきた。
訳も無く自分に当たっている事に気付いて、少し落ち着こうと息を吐く。
(心配してっかなぁ、)
小一時間で帰るつもりだったと言う事は、其の予定を伝えていてもいなくても、
要らぬ心配をかけているに違いない。
自分の事だから、と深刻に考えないでいてくれたら良いと思った。
(探してくれてたりすんのかなぁ、)
(あああナミさんもビビちゃんもそんな事は野郎共に任せて…)
其処まで考えが暴走した所で、
(…なんて考えてる場合か、)
ふと、我に返った。どうも、無意識に混乱しているらしい。
(とにかく、さっさと帰らないと…)
先まで背中を預けていた木の幹に体を押しつける様にして、少しずつ立ち上がる。
頭が、動かされる度に痛みを訴える。
座っている内に忘れてしまっていた目眩は、血の気が引く感触とともにぶり返した。
楽になりたいと思う自分自身を叱咤して何とか立ち上がった所で、
「 」
足から、力が抜けた。支えの一つを失った体が、再び地面に無様に落ちる。
足は僅かに震え、まるで思い通りにならない。
「…くそ、」
悪態を付いて顔を顰める。
此処へ来て初めて、歯がゆさを感じた。
そして、何処かで思い出す事を恐れていた記憶が蘇った。
(ちっとも、変わっていねぇじゃねーか、)
どれだけ自分を奮い立たせても、世界の前では余りに無力で。
自分の成長や変化など、所詮は些細なものなのだと嘲笑う様で。
(嫌になる。)
世界を人の形にしたなら、きっと其れはやたらと骨張って堅い手をしているのだ、
(多分。)
理由とかそう言うものは分からないけれど、そう感じた。
其れが何かを思い出させる様で癪に障った。
どれ程、そうしていたのか、着実にスコールが近づいて、弱い風が頬をなでた。
声を上げて笑い出してしまいそうになった。
自分の単純さに、呆れた。
其れは、慣れた潮の匂いだった。
(助けられる事を待っていられる様な性格をしてたかよ、俺は、)
口元が、弛むのを感じた。
(真っ直ぐ歩いてりゃなんとかなるさ、対した大きさの島じゃねーんだ。)
正しい判断でない事は分かっている。其れでも、
(格好悪いのは嫌なんだよ。)
自分が、プライドや意地のために命を懸けられる人間である事を誇りに思う。
状況は何一つとして好転していない。
潮の匂いがしたからと言って、帰るべき方向が分かったわけでもない。
相変わらず足に力は入らないし、動く度に襲う頭痛も変わらない。
けれど、
(だから、なんだってんだ。)
見えている世界は、明らかに変化していた。
(忘れてたぜ、)
(俺は、奴等に負けない位、馬鹿で単純で、命知らずなんだよ。)
立ち止まる分別を捨てたのは、つい最近の事だったのに。
波の音が聞こえた時、無意識に何か呟いていた。
バランスを失う度に身近な木に倒れ込んで体を支えるものだから、
皮膚が出ている所には無数の傷が出来ている。
少なくとも、此のワイシャツは寿命かも知れないと溜め息を吐いた。
視界が開けたのは一瞬の出来事だった。
緑と、木肌の色に覆われた現職の世界に慣れた目は、新たな世界の色に眩んだ。
殆ど砂と化した土に生えた木に体重を半分預ける。
今にも、笑い出してしまいそうな自分に気付いた。
だが、とうに限界を超えていた体は、笑い声に似た息遣いをするだけだった。
自分で思っていた以上に極限だったのかも知れない。
背を木に預けたまま、崩れる様に座り込む。
その勢いを殺す事も出来ず、砂の上に全身を預けた。
視界一杯に曇天が広がる。
(眠い。)
そう思った所で、殆ど意識を飛ばしていた。
「おい、コラ起きろ。」
ぺちぺちと、頬を叩かれる感触に目を覚ます。
うっすらと開かれた、半分ぼやけた視界に、見慣れた顔の、見慣れぬ表情があった。
「…ゾロ、」
すぐ目の前にある、安心した様な、その前の不安を拭い切れずにいる様な、そんな表情。
「何やってんだ、こんな所で。」
「知るかよ。」
正直に答える事をプライドが許せずに、目線を反らして呟く。
ちら、と見えたゾロの表情が、手前の性格などとうにお見通しだと言っている様で、余計に腹が立った。
「立てるか、」
言いながら、ゾロか立ち上がり、此方に手を差し出す。
だが、ゾロは、答えを聞くより先に、勝手に掴んだ右手を引っ張って上体を起こし、
そのまま、まるで荷物の様に自分を肩に担いだ。
「頭、」
文句を言うより先に、ゾロが呟く。
「何だよ、」
「大丈夫か、」
「…何が、」
「…血。額にこびりついてる。」
言われて、初めて気が付いた。
額に手を当て、其れらしい感触を探り、擦る。
指に、乾き切った血が擦れた跡が残った。
後頭部だけでは無かった様だ。
「…多分。瘡蓋になってるみたいだし。」
「…そうか。」
其れ以上、ゾロは何も喋らなかった。
此方を見る事もせず、只黙々と歩く。
居心地は決して良くなかったが、だからと言って自分から口を開く気にもなれない。
ゾロの足が砂を踏む音を聞きながら、ふと、本格的にスコールが近づいている事に気付いた。
(雨、雨、雨。)
胸中の呟きに答えるかの様に、ぽつり、と水滴が頬に落ちた。
始めは、数えられそうな程に一粒一粒。
しかし、ものの数秒で雨は勢いを増していった。
「降ってきたか、」
チ、と舌を打って、ゾロが体を抱え直す。
「走るぞ、」
素早く周囲を見回し、適当な大木を見つけると、一言だけ告げて走り出した。
(雨、雨。)
火照った全身を打つ水が心地よい。
熱を出しているのかも知れない。
根本に座らせる様に下ろされる。
ゾロもすぐ隣に腰を下ろし、雨水に塗れた手を此方に向けて伸ばした。
無言で、額の血を拭い取る。
其の冷えた指先が先刻の雨水よりも心地よく感じられて、
目的を果たして離れようとした其の手を、右手で押さえた。
互いの視線が、絡むのを感じる。
其のまま、無言のままで指を絡めた。
泣き出してしまいそうな自分に気付いた。
其程の、安堵感に包まれていた。
それぞれが引き寄せられる様に唇を重ねる。
雨音だけがリアルに聞こえた。
雨が上がった瞬間の青空が好きだ。
其れが、気持ち良い程の大雨の後であれば、尚更。
「止んだか、」
一言だけ呟くと、ゾロは先刻と同様に、立ち上がって此方に手を差し出した。
「ん、」
今度は、自分で其れを掴んだ。
砂浜の向こうに豆粒の様なメリー号を見つけたのは、其れから十五分程後の事だった。
「おい、ゾロコラ下ろせ、」
ばんばんとソロの胴を叩く。ゾロは足を止めて、
「大丈夫か、」
そう、尋ねてきた。
無表情なくせに、自分を心配しているのがありありと見て取れて、笑えた。
「あ、何言ってやがる、大丈夫じゃねぇに決まってんだろ。
頭は痛てーし足には力入んねーしよ、」
「だったら、」
「らしくねぇだろ、」
だから、其れで良いのだと自分自身に言う様に、
「俺が、手前に全部預けてるなんてよ、」
「…」
「肩だけ貸せよ。なぁ、どんな状態でもよ、
阿呆みてぇに痩せ我慢してる方が、俺らしいだろ、」
そう言って、に、と笑う。
呆れた様にゾロが溜め息を吐いた。
だが、其の表情にも又、笑みが混ざっていた。
「…だな、」
「だろ、」
其れが、誇らしかった。
森で感じた時より、余程。
船に着くなり、気を失った。
目覚めた途端,チョッパーに頭を小突かれた。
力が入らないとだけ思っていた足は、左右とも折れていた。
意識がはっきりしないだけだと思っていたが、骨折の痛みにも気付かせない程の高熱を出していた。
頭の怪我は、軽い裂傷で済んだ。
其れでも、自力で歩こうとする状態ではなかった。
自分が意識を取り戻すと同時に、船は島を出た。
チョッパーの目を盗んで、甲板まで出た。
何をするでもなく、只、遠ざかる島の姿を見つめる。
無意識に、右手を唇に触れさせる。
あの時の心地よさに戻った気がした。
ふと、足元に目を遣る。其の左足首に、あの蔦が絡まったままなのに気付いた。
歩き出した時に千切れ、其のままになっていたのか。
屈んで、する、と其れを解く。
数秒の間、其れを見つめて、海に放り投げた。
其の軌跡を、目で追う。
「ザマミロ、」
小さく、呟いた。
「もう、要らねーんだよ、そういうのは。」
島は、もう遠くにある。
ゾロが、隣にいたら良かったのにと思った。
同時に、いなくて良かったと思った。
此のままが良いと、確かに思っていた。
潮風が、心地よかった。
海は青く、
空も青く。
楽園は、遠く。
| 世道今日を始め、色々な人に言われました。 「下手なエロよりエロい。」 そうなんでしょうか。 |