第七景 外部世界ら
確か、プライバシーの権利だとか何とか、そう言うものが自分にはあった筈だ。
世の中は、何かおかしい、と子供の様にストローを噛んだ。
ストローに残っていたジンジャーエールの水滴が自然に口に入る。
炭酸が抜け切っても、他のものより甘ったるくならないのは有り難い。
幼い頃、炭酸が苦手だからとコーラの炭酸を抜いて飲む奴がいた事を思い出す。
胸焼けしそうだ。
甘いものが駄目ならば茶でもコーヒーでも飲めば良いのかも知れないが、此処一週間の行動のお陰で、どうにも舌が肥えた。
ファーストフード独特の中途半端な濃さが、好きになれなくなっていた。
だが、食べ物の方は飲み物程気にならない。
どういう理屈なのだろうか。
そんな事は、まあ、どうでも良い。
「一体、どうなってんデスカネ、法律ってのは。」
不快感を隠す気は無い。
取って付けた様な敬語である事も気にはしない。
「蛇の道は蛇、と言った所だね。」
「あー、そうデスカ。」
弁護士が蛇とは、随分素晴らしい社会だ。
そう言う訳で、大学の最寄り駅構内のファーストフード店、カウンターの様になっている席の隣には、例の弁護士が偶然、いる。
授業が終わるなり入った席でばったり、という偶然が成り立つ程、此の男はこういう店に相応しい雰囲気を持ってはいない。
「で、何の用だ、」
本当は、聞くまでもない。
此の男と自分の繋がりなど、一つしか思い当たらない。
先を促す意味でそう言うと、弁護士はずれた眼鏡をくい、と直した。
「彼の事で聞きたい事があってね、」
「本人に聞けば良いだろうが。言っておくが、俺は何も知らねえぞ。」
悪びれない、探偵じみた態度に腹が立つ。
「彼の名字を教えてくれないか、」
投げられた言葉に驚いて、弁護士を見る。
「……は、」
「其れ以上の上方は期待していないよ。」
「一寸待て、」
言われた内容に何となく怒りを感じたが、其れは置いておく。
「名字って……んな事も知らねえのかよ、」
相続のごたごたの途中であり得る状況ではないだろう。
「言って貰えないものは仕方がないだろう、個人的なものならばね。だが、今現在彼はそんな秘密主義がまかり通る状況ではない。彼が言わないのであれば、此方も調べるしかあるまい、」
成る程、腑に落ちない点は幾つかあるが、大体の事は理解出来た。
「だが、あいつは別に相続しようとしてる訳じゃねえだろう、要らねえっつってるだけだ。だったら、其れで良いんじゃねえか、」
「其れで良いならわざわざ聞かないだろう。其れで、教えてくれる気はあるのかい、」
「良くねえってのは、どういう意味だ、」
平行線に近付き始めた議論に、弁護士が溜め息を吐いた。
「守秘義務というものを知っているかね、」
「どうやら、俺にはプライバシーってものが無いらしいけどな、」
喧嘩を売ったつもりだった。
しかし、弁護士は眼鏡の奥で小さく笑うだけだった。
「成る程、では、取引と行こうか。」
弁護士は、両肘をテーブルにトン、と置く。
「金の話みてえに言うんだな、」
「情報ははした金よりも余程価値があるよ。」
弁護士がふ、と笑みを浮かべる。
「特別縁故者……被相続人と生計を同じくしていた人間に、本来相続の権利は無い。縁が薄くとも、親類がいる限りは。」
サンジが言っていた「本来」とはこういう意味だったのか。
「だったら、其れで良いんじゃねえのか、」
「だが、困った事に遺言が残されていた。其れがある限りは、あの屋敷は彼のものだ。」
だから、要らないと言っているのではないか。
口にはしなかったが、向こうも此方の疑問を察したのか、一言切って、話を続けた。
「本来未成年者は、自力では相続の承認も法規も出来ない。まあ、意思表示は有効と見なされるんだが。
此処で、法定代理人が必要になる。」
「法定代理人、」
「基本は保護者だ。親権を行う物がいないのであれば、家庭裁判所が勝手に選人する。請求すればね。だから私は、親はいるのかと彼に尋ねた。」
「其れで、」
紙コップの中身が氷だけになっているのに気付き、促しながら手持ち無沙汰にストローで中身を突いた。
「いないわけではない、だそうだ。其れ以上は絶対に言おうとしない。相続する気は無いから放って置いて欲しいの一点張りだ。」
コップの中の氷が、ざり、と音を立てた。
「しかも、遺言状には彼の下の名前しか書かれていなかった。被相続人も知らなかったのかも知れないな。彼の家に何があるのかは知らないが、此ではどうしようもない。せめて彼の本名が分かれば動きようもあるからね。……さて、」
弁護士が此方に向き直る。
「君の番だ。」
ストローから手を放す。
「悪いな、」
口元にだけ笑みをにじませて、弁護士を見る。
「どういう意味かね、」
弁護士が、ぴくり、と瞼を動かした。
「俺も名前しか知らねえよ。あいつの事は、手前の方が余程知ってると思うぜ、」
数秒の沈黙を置いて、弁護士が口を開いた。
「ふむ、まんまと担がれた訳か、」
「そう言う訳だ。じゃあな、」
してやったり、と席を立つ。
トレイに手を掛けた時、視界の隅で弁護士の顔が見えた。
「何、気にはしていない。先刻も言っただろう、情報は、はした金よりも価値がある。あらゆる意味でね。」
言いながら浮かべられた笑みに、しまった、と思った。
「……」
「期待しているよ。情報分位は、働いてくれたまえ、」
何も、言い返せなかった。
忘れていた。
相手は、駆け引きのプロだ。
舌を一つ打って、弁護士に背を向ける。
此方に気付いた店員が、有り難うございました、とやたら明るい声をかけてきた。
駅前のバス停を通り抜けながら、さて、どうしたものかと頭を抱えた。
此では、向こうの思うつぼだ。
(放って置く訳にもいかなくなっちまった……)
弁護士、其の向こうにいる本来の相続者、そしてサンジが望んでいる事は共通している。
此の状況を打開するには、サンジが動くしかないのだ。
其の為に、自分は、最適な駒になる。最良かどうかは別にして。
夏の陽射しが照りつける。
バスの排気ガスの独特の周期に眉を顰めた。
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