第八景  遠い嘶の


 木目を中心に黒でまとめられた店内は、丁度良く冷房が効いている。
 大きな窓から見える景色は、落ち着いた店内とは対照的に明るい。
 だが、店内の其処此処に置かれた大小の植物と、歩道に並ぶ木々が、返って其の対比を上手くまとめている。
 学生の頃は何度も此の通りを歩いたし、此の喫茶店の存在も知っていた。
 だが、入ったのは此が初めてだった。



「今まで、何処にいらしたんですか、」
 テーブルの向こうで、スプーンがティーカップとぶつかって涼しげな音を立てた。
「皆さん、心配なさっているんですよ、」
 端から見れば、自分達は恋人同士に見えるのだろうか、どうでも良い事を思った。
「ふうん、」
 白々しいと、思う。
 自分も、彼女も、彼女の向こうにいる人間達も。
 其れが事実ならば、とうに連れ戻されていただろうに。
「せめて、あの人にだけでも会って頂けませんか、」
「そう言えば、もう入籍は済んだの、」
 彼女の指がぴくりと動く。
「誤魔化さないで下さい。」
「うん、御免ね、」
 本心を完全に隠した、愛想笑いで返す。
 昔の自分を思い出すだけで、無意識に蘇る悪癖だ。
 所詮、逃げたつもりになっていただけなのかも知れない。



『今日、あの弁護士に会った。』
 昨日の夜、かかってきた電話で告げられた。
 其の後、色々な言葉をかけられた筈だが、殆ど忘れてしまった。
 限界なのかも知れないと感じた。
 無力だと、悟った。
 内容は忘れてしまったけれど、受話器から聞こえた声の響きは全て覚えている。
 性懲りもなく、縋っている自分に気付く。
『悪かった。此でもう、終わらせるから。』
 別れを、告げたつもりだった。
『明後日、又行く。』
 返された言葉に、自分の弱さを思い知った。



「必要な書類はもう届いていると思う。面倒をかけるけど……」
「一つ、聞かせて下さい。」
「何処にいらっしゃるのかは聞きませんから……一人では、無いんですよね、」
 彼女が此のままでいてくれれば其れで良い。あの家に望むのは其れだけだ。
「うん、今はね。……そう言えば、あいつに似ているよ、何となく。」
「……」
「どっちみち、逃げられないのかも知れないな。」
 彼女が表情を曇らせる。
 余計な事を言ってしまったと後悔した。
「……そうですか、分かりました。書類の事は、私が何とかしてみます。」
「うん、有り難う。」
「いえ……」
「一つだけ、伝言を頼んで良いかな、」
 彼女は少しだけ、意外そうな顔をした。
「悪かった。二度とこんなへまはしないから、此のまま忘れていてくれ、って。」
「……はい、」
 彼女のティーカップが又小さい音を立てた。
「あの、もう一つだけ、良いですか、」
「うん、」
「私を呼んだのは、私が未だ、あの家の人間ではないからですか、」
 言われて初めて気が付いた。
 そうだったのだろうか、
 少し考えてみたが、はっきりとした答えは出せなかった。
「そうだったのかも知れない。」
 少なくとも、理由の一つではあると思う。
 ふと、自分とは少しも似ていない弟の事を思い出した。



 此の店は、味も雰囲気も悪くない。
 もう二度と、来る事はないだろうけれど。
 誰かが、ドアベルを鳴らした。



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