第九景  香気満つる淵


『今日、あの弁護士に会った。』
 駆け引きや隠し事は苦手だから、正直に告げた。
 其れだけで全てを察したのだろう。受話器の向こうの沈黙に後悔した。
『悪かった。此でもう、全て終わらせるから。』
 静かに告げられた言葉は、少し震えていた。
 別れを告げられた気がした。
『明後日、又行くから。』
 其れを、確信したくなかった。
『先生の遺品を貰いに行っても良いか、』
 思い付きの理由を付けてしまったのは、余計な事を知ってしまった事への罪悪感だったのかも知れない。



 一日毎に夏の暑さが増していく気がする。
 恐らくは只の錯覚なのだろうけれど。
 だが、此の家の雰囲気は、相変わらず其の感覚を忘れさせる。
 庭の景色の中心に立つ一本の樹は、外からでも其の大きさが分かる。
 其の枝が、風が吹く度に影を揺らし、微弱な筈の風を心地よいものに感じさせた。



「上がってくれ。一通り物はまとめてあるから、其の中から選んでくれて良い。」
 玄関に入ると、前に見たのと同じ革靴があった。
「……悪い、邪魔になるなら……」
「良いよ。多分、向こうも気にしてないから。」
「そうか、」
「ああ、」
 確かに、気にも止めないだろう。あの男は。
 上手く自然光を取り入れた廊下を、サンジの後について歩いた。
 通されたのは、先日の部屋の奥、恐らく、先生の私室だろう。
「此処に、先生の身の回りの物は置いてあるから。」
 そう言って、サンジは部屋の奥を指差す。
 其処には、幾つかの木箱と小棚が置かれていた。
「後で、何か持って来るよ。」
「ああ、悪いな、」
「其ればっかりだな、まあ、楽しみに待ってろよ。」
「そうさせて貰う、」
 サンジが部屋を出る。
 すぐに、隣で「お待たせしました、」というサンジの声が聞こえた。
「いえ、」
 隣の部屋とは、襖で区切られているだけだ。
 サンジだけでなく、弁護士の声も良く聞こえた。
 不可抗力である筈なのに、居心地の悪さを感じて、一番近くの小棚に手をかけた。
 何か、おかしい気がする。
(何で、)
 思いつくままに、記憶を探る。
 引っ掛かるものが無い事に気付き、理解した。
(あんなだったか、あいつは、)
 先刻の会話は、余りにも自然過ぎた。
 不自然で、当たり前ではなかったか、
 何故だろうか、嫌な感じがした。
「此で最後ですね、サインをお願いします。」
 弁護士の言葉に、心臓が脈打つ。
「はい、」
 静かなサンジの声に、思わず聞き耳を立てる。
 ペンが紙の上を走る音すら、嫌にはっきりと聞こえた。
「此で、手続きは完了しました。」
 弁護士の言葉に、無意識に拳を握っていた。
 終わらせる、とサンジは言っていた。
 此で良かったのだろうか。
 答えの出ない疑問に苛立つ。
「はい、有り難うございました。」
 サンジの無機質な声が聞こえる。
 其の、余りの感情の無さに、正体の分からぬ衝動を感じた。
「其れでは、立ち退きは今日中で宜しいんですね、」
「はい、」
 弁護士の言葉に驚きながら、頭の中は何処か冷めていた。
 今週中、と、始めの夜にサンジが言っていた。
 其れを実行しただけだ。
 しかし、
 簡単に言うものだと思う。
 権利の無い怒りの矛先が、弁護士なのか、サンジなのか、自分自身なのか、其れすら分からない。



 弁護士を玄関まで見送り、サンジが部屋に戻って来た。
「決まったか、」
「あ、ああ。此、良いか、」
 其方の遣り取りが気になって見てすらいない、等と言える訳がない。
 手をかけていた小棚の引き出しから、適当に一本の万年筆をサンジに見せた。
 サンジは少し驚いた顔をした。
「良いよ。そうしたら、向こうで待ってろ。何か持ってくる。」
「……ああ、」



 サンジが盆に二人分の茶と水菓子を持って来る迄の間、ぼんやりと其の万年筆を眺めていた。
 どうして、
 出かかった疑問が、口から発せられる事はなかった。
 其れを全く拒否する空気の中で、サンジはいとも簡単に此の家を明け渡した。
 何の意味も持たないものだと言うかの様に。
 無意味だと見なされたのは、此の家なのか、其れとも彼自身なのか。



 グラスの表面に浮かぶ水滴が、麦茶の冷たさを証明する。
 風通りに問題はないとは言え、此の時期に冷房がないのは少々辛かった。
 全身に薄くかいた汗が、風に当たる度につかの間の涼を与える。
 普段ならば気にも止めない事を感じながら、無言で麦茶をすすった。
 サンジは、自分の前にも麦茶と水菓子を置いたが、其れには手をつけずに、万年筆を見ていた。
「其れ、良く分かったな、」
 唐突に、ぽつりと呟く。
「何が、」
「万年筆。何本か入っていただろう、でも、先生が普段使っていたのって其れだけなんだよ。他のは只の予備。」
 一陣の風が吹く。
「仕事するにしても、何書くにしてもな、」
 カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
「一本な、一度も使って無いのがあるんだ。」
 言いながら、サンジが立ち上がる。
 部屋を出て、席に戻って来た時、サンジの右手には似たようなデザインの万年筆があった。
「半年位前に、俺が買った。……別に、理由もなかったんだけど、……何となく。」
 カタ、と万年筆をテーブルの上に置く。
「でも、先生は受け取ったきり、一度も此に触れなかった。」
 淡々とした声だった。
「捨てて欲しかった。中途半端に手元に置かれるのがかえって辛かった。」
「そう、か。」
 其れ以上、何も言えなかった。
 何を言えるというのか。



 実際、遺品なんて何でも良かった。万年筆を選んだのも、単に一番適当だったからだ。
 只の口実だった。
 再び、此の家に来る為の。
 再び、サンジに会う為の。
 そう言う自分にとって、所詮此は只の万年筆でしかなかった。
 だが、サンジにとっては。
 其れは、嫉妬に近い感情だった。
 しかし、やはり其れも無責任な好奇心だった。



「片付けるな、」
 サンジが空になった小皿とグラスに手を伸ばした。
「ああ……。」
 一緒に盆に乗せられたサンジの其れは、全く手をつけられていなかった。
 サンジが部屋を出ていく。
 一人になった途端、部屋が広く感じられた。
 何故、
 思い浮かぶのは其れだけだった。
 何故、此の家を失える、
 先生に対する紛れもない執着心を持ちながら。
 何故、そんなにも当たり前の事の様に言える、
 そして、何よりも、
 何故、あんな事を話した、



 答えはすぐ側にあった。
 其れは余りにも単純な事であり、
 とても、悲しい事実だった。



 柱時計が午後四時を打った。
 沈黙を破る音と共に、サンジが口を開いた。
「俺は、そろそろ行くけど、お前はどうする、鍵は郵便受けに入れておけばいいから、いても良いけど、」
「あ、いや、俺も行く。」
 慌てて立ち上がる。
 サンジが静かに笑った。
「悪いな、」
「気にしてない。」
 ふと、背中に吹き付けた風が心地よかった。



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