第六景  一色の物憂き


 大学から三十分程かけて着いた屋敷は、相変わらず寂然とし、異質な空気に包まれていた。
 昼と夜では随分と印象が違ったが、其れだけは変わらなかった。
 思ったよりも庭木が多い事に気付く。
 光量の差で見えるものは変わるのだと、当たり前の事を実感した。
 インターホンを押すと、数十秒もかからずに、
「はい、」
 サンジの声が聞こえた。
 顔を覗かせたサンジは、此方を見て少し驚いた様な顔をした。
 「悪い、連絡してから来たかったんだが、電話番号知らねえから……」
 何も言われていないのに、勝手に弁解している。
 少し知恵の付いた子供の様だ。
 サンジの顔が、惚けた様なものに変わっていた。
「いや、別に構わねえけど……電話帳に載ってなかったか、」
「だってお前、名前しか言って……」
 はた、と気付いた。
「あ―――……そうだよな、先生の名前で載ってるよな……」
「だろ、」
 言いながら、サンジが笑い出した。
「電話会社対応早えーとか思ったじゃねーか、ありえねえだろ、」
 笑いながら喋るものだから、言葉が途切れ途切れになる。
「馬鹿ー、」
 等と言いながら笑い続けるサンジに、
「うるせえ、」
 と目線をそらす。
 そして初めて、一足の革靴に気付く。
 前に来た時は見なかった。
 見覚えのあるスニーカーとはサイズが異なる。
「悪い、誰か来てるのか、だったら後で改めて……」
 すると、サンジの笑いがぴたりと止み、表情が強張った。
 失敗した、と思った。
「あー、うん。一寸、待っててくれないか―――」
 引き止める様な仕草をしながら、後ろを向く。
 其の先にあった陰に、サンジの動きと言葉が止まった。
「……」
 人影を見るサンジの横顔に、何故か落ち着かない。
「構いませんよ、もう、お暇しようと思っていた所ですから。」
 人影が口を開く。
 ひょろりと背の高い、三十代位の男だ。
 物腰や話し方の割に、眼鏡の奥の眼光は鋭い。
 いけ好かないと、直感的に思った。
「お友達ですか、初めまして。」
 男が軽く会釈して、名刺を差し出す。
 受け取らない訳にもいかず、名乗りながら会釈を返し、名刺を取る。
(弁護士、)
 見遣ったサンジの表情に既視感の様なものを感じ、気付いた。
『明後日、』
 一昨日、サンジはそう言ってはいなかったか。
(あの時の電話の相手か、)
 玄関に降りる男を避けて、壁に寄りかかる。
 洗練された、とでも言えば良いのか、流れる様な男の動きに、胡散臭さを感じた。
「其れでは、又伺います。」
 半開きになったドアを背に、男が軽く頭を下げた。
 ガララ、と古風な音を立てて、戸が閉まる。
 其の様子を無言で見送った。
 居心地の悪さに其のまま黙り込む。
「上がれよ、」
 ぽつりと告げられたサンジの言葉が、空気をぎこちなく動かした。



「大変そうだな、何か。」
 テーブルの上に置かれた書類を見ながら、紅茶をすすった。
「まあな、付き物だろ、こういうのは。」
「通夜やって葬式やって相続だ何だ、だろ。無粋っつーかなんつーか……」
「……でも、こんなだだっ広い家に一人でいたら、立ち直りようがないけどな、」
 そう言って笑うサンジは、確かに、初めて見たときよりは明るくなっている様に見えた。
此の家を出ようとしている理由は其れなのかも知れない。
「お前は、大学とか行ってねえの、」
 ふと、口にした一言で、サンジは妙な表情に変わった。
「……あー、まあな。今の所は只の無職。お前は、」
「大学二年。……つーか、」
「何、」
「お前、俺の事何も知らねえだろ。不用心だよな、良く考えたら。」
 初めて気付いた様に、サンジが「あ、」と呟いた。
「上がっておいて何だけどよ、俺が詐欺師か何かだったらどうするんだ、」
「ん―――……」
 上方に視線を彷徨わせ、声を伸ばしながら紅茶を飲む。
 カチャリ、とカップを皿の上に戻して、サンジは此方を見た。
「其れは、無えと思う。」
 其の言葉はまるで確信している様で、何故か戸惑う。
「俺ってさ、結構ゴチャゴチャ考えるタイプなんだよ、理屈っぽいっつーか、イマイチ自覚出来てねえんだけど。でも、どういう訳か直感の方が当たるんだよ、昔から、」
 そして、「何つーのかな、」と額を引っ掻く。
「だから、初対面で好きになれねえ奴は、其の後何があったって一生好きになれねえんだ。逆も同じで……」
 其れは、何となく分かる様な気がする。
「取り敢えず、お前は嫌いじゃねえから。お前が俺の害になるってのはあり得ねえと思う。」
 サンジが、くすぐったそうに笑う。
 確かに、口に出してみるとやたらと気恥ずかしい。
「……なあ、」
 サンジは目を僅かに伏せて、ティーカップの縁を指でなぞる。
「教えてくれないか、先生の事。」



 いつか、聞かれると思っていた。
 出会った日は適当に誤魔化していた事だ。
 ただ、其れが余りに静かな口調である事に驚いた。
「昔、世話になったって言っただろ、実際、一回しか会った事は無えんだ。」
 其処まで言って、紅茶を飲み干す。
 妙な記憶だ。
「今も、自分が馬鹿だってのは分かってんだけど、まあ、二、三年前は例に漏れず馬鹿も最高潮だったんだよ。喧嘩っつーのは売られたら買うもんだと思ってて、」
「何かお前っぽいな。無意識に敵作ってんだろ、」
 くすくすと笑いながら、サンジが頬杖をつく。
「其の時も、どういう訳か、顔も知らねえ奴に喧嘩を売られて、正直に買った。只、其の日はやたらムシャクシャしてて、普段だったら流石に分かっていた筈の手加減とか、引き際とかが見えなくなっていた。」
「其れで、」
「止めとけ、って一言。其れだけだ。」
 余りに呆気ない話のオチに、サンジがきょとん、と目を見開く。
 無理も無い。
「其れで漸く我に返ったんだが、矢張り馬鹿だったから、今度は先生に食ってかかった。したら、」
 先刻渡された名刺を鞄のポケットから取り出して、縦に持った其の縁で、サンジの額をこつん、と突いた。
「名刺で、こう。訳分かんねえだろ、呆気にとられて何もかも吹っ飛んじまった。」
「訳分かんねえ……」
「な。多分、未だ家にあるぞ、其の時の名刺。」
「貰ったのかよ、其れ、」
「気が付いたら持ってた。」
「じゃあ、何でお前、先生って呼んでんだ、」
「お前が言ってたから。名字で呼ぶのもアレだし、何か、らしいだろ、先生って。」
サンジがテーブルに突っ伏す。
「うーわー……そんな面白い人だったのかよ先生―……何かすげえ夢見てた気分……」
 腕の奥から聞こえる籠もった声に、悲しさや辛さは感じられなかった。
だから、油断していた。
「お前は、」
 起き上がったサンジの、出来損ないの作り笑いに後悔した。
 失敗した、と唇を噛む。
「言わなくて良い、」と口を開きかけた所で、サンジが話し始めた。
「一年と、少し前。何かどうしようもなくなった気がして、どうにかしなきゃならなかったのは分かってたけど、疲れて、しんどくて、」
 其れ迄緩く握られていた両手が、堅く、そして小さく震えていた。
 其れにも関わらず、サンジの声は淡々としていて、作り物めいて聞こえた。
「居場所を与えられた気がした。」
 止めなければならなかったのかも知れない。しかし、こんな状態で最も正しい反応が出来る程、大人ではなかった。
 相槌すら打てずに、見ている事しか出来なかった。
「逃げ場所だったのかも知れない。先生は何も言わなかったから、其れでもどうしようも無い程、此処は心地よくて。」
 何故、こうなってしまうのだろう、と、そんな事を考えていた。
 あの夜も、今日の玄関でも、今も。
 サンジが本来持っている筈の一面を見つけかけた途端に、暗転する様に影が落ちる。
「其れだけだ。」
 其れを、歯痒いと思っている自分に気付く。
「実は、先生の事なんて何も知らない。だから、知りたかったのかもな。悪い、変な事聞いて。」
 自分の感情に、戸惑う。
 自分は、サンジに何を望んでいるのか。
『自分の事が分かってねえって、お前もだろ。』
 ルフィの声が蘇った。
 其の通りだと、思った。
 視界の端、網戸の向こうで庭木が揺れた。
 其れに少し遅れて、心地よい風が一陣、差し込んだ。



「又、来いよ。」
 そして、漸く分かった。
 サンジは、立ち直ってなど、いないのだ。
 其れは、一枚の壁の様なものだ。
 例えば、其れが壊れてしまったとして、普通は、接着剤の様なものを片手に、パズルのピースを合わせる様に少しずつ直していくのだ。
 子供の積み木の様に積み上げていったとしても、其れはいつ又壊れるとも知れない危ういものでしかない。



 時間とは、あらゆる意味に於いて全能で絶対の薬だ。
 其の分、残酷なのかも知れない。
「ああ、」
 上手く答えられていれば良いと思った。



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