第三景   木末の哀音


 広い屋敷は外観と同じく、数十年の歴史を感じさせた。
 だが、良く行き届いた手入れと掃除が、其の印象をより良いものへと変えている。
 通り過ぎた部屋は、暑さの為にか開け放たれており、内部が自然と目に入る。
 広さの割に家具が少ないのが気になった。



 通されたのは、平生は客室として使っているのであろう部屋だった。
 当たり前の様に殺風景な部屋の奥に、小さな台と骨壺を置いた木箱、其れと、線香立て等の仏具があった。
 其の前にある座布団に促すと、彼は部屋を出ていった。
(妙な奴だな、)
 そんなことを思いながら、手を合わせた。
 先生にあったのは、確か二、三年前。一度切りだ。
 時間にすればたった数分、言葉にすればたった一言。
 先生が生きていたとしても、自分を覚えているとは思えない。
 名前だけで先生を思い出せた事も奇跡に近いような気がする。
 其れでも、呆気無い喪失感を覚えた。
 自分が、人の死に慣れていないからだろうか。



 物音に、ゆっくりと目を開く。
 彼が、グラスが乗った盆を背後のテーブルに置いている所だった。
「大した物は無いけど、」
 そう言って、グラスと、茶受けが入った小皿を此方に並べた。
 柑橘系の匂いと、浮かべられた扇形の実に、単純にレモンティーを予想しながら口を付ける。
一口飲んで、其の甘みに驚いた。
「夏蜜柑か、」
 気付いたままに言葉にすると、彼は嬉しそうに、
「当たり、」
 と答えた。
「意外に美味いな、」
「結構何でも合うんだぜ、柑橘系ならそうだな、かえって檸檬より蜜柑の方が……」
 そう言って、笑う。
 外で見た彼は、何となく無機質な雰囲気を纏っていた様に思う。
 一変した印象に、表情の偉大さを知った。
「そっちも、食ってみろよ、同じ茶葉使ってんだ。」
 元々、こういう話が好きなのかも知れない。
 彼が指差したクッキーを一つ手に取り、口に放る。
 茶葉の味を印象付ける為だろう、甘みは極力抑えられている。
 其の分、独特の風味がして、
「だろ、」
 感想を表情で察したのだろう。
 言う前に答えが返ってきた。
「お前が作ったのか、器用だな。」
「器用は関係ないだろ、……他に、する事も無かったからな。」
 彼の表情が僅かに曇った。
「なあ、聞いても良いか、」
 笑いを収めるとすぐに其れ迄の無機質な雰囲気に戻った。
「ああ、」
 承諾すると、彼は僅かに戸惑いを見せながら、
「先生とは、どういう……」
「あー、まあな、昔下らねえ事で一寸世話になった。其れだけだ。」
 人にわざわざ言う様な事でもない。
 誤魔化す様にグラスに口を付けた。
「……そう、か。」
 何とも言えない、複雑な表情で彼は微笑んだ。
 其れは、先刻の笑みとは何処か違っている事に気付く。
 そして、彼の表情一つ一つをいちいち気にしている自分に戸惑った。
 お前は、
 ずっと引っ掛かっていた。
 始めは、家族かと思っていた。
 しかし、彼は先生を、『先生』と呼んでいた。
 大学とは一駅しか離れていないから、下宿とか親戚とか、幾らでも可能性は有りそうな気もしたが、どれもしっくりと来なかった。
 だが、其れを口にする事は出来なかった。
 葬儀当日の夜だというのに、広い屋敷には他の人間の気配は無い。
 其れが、先生と、恐らく彼の孤独を証明していた。
 其れに無遠慮に触れる事は出来ない。



 気まずい沈黙に押し入る様に、電話機が鳴り響いた。
 彼は、「悪い、」と言って席を立った。
 遠ざかって行く足音がやがて聞こえなくなると同時に、電話機の音も消えた。
「はい、」
 彼の声が僅かに聞こえる。
 手持ち無沙汰に、グラスに口を付ける。
 多少の後ろめたさを感じながら、彼の声に聞き耳を立てていた。
「ええ、―――はい、」
 不思議な人間だと思った。
 何と言えば良いのだろうか。
 すぐ目の前にいる筈なのに、何処か遠くにいる様な気がした。
 始めこそ、彼の外見や態度を気にもしたが、今は其の異質さばかりが気になった。
 其れは、此の屋敷も同じなのかも知れない。
 他の一切を拒絶しようとする様な雰囲気。
 そう言う物を感じた。
 彼にも、此の屋敷にも。
 恐らく、彼に関して言えば、其れは無自覚のものなのだ。
 自覚出来る様な、浅い所にある様なものではない。
 実際、拒絶に気付きながら、嫌な気はしなかった。
 少し、居心地が悪いだけで。
 ただ、妙に引っ掛かった。
 誰よりも、彼が。
「其れは、今週中に。……ええ、構いません。」
 耳が慣れてきたのか、先刻よりもはっきりと聞き取れる。
 相変わらず、冷めた口調だと思った。
 そう思える程言葉を交わした訳でもなければ、そうでない一面を知らない訳でもないのに。
「ええ、では、明後日に、はい。」
 明後日、
 余計な事を記憶してしまった。
 小さな合図地が何回かあって、其れから暫くの間があった。
 細く、息を飲むような音が聞こえた。
「……出来ません、」
 何故か、其の声が震えている様に感じた。
「いえ、そう言う訳では……ですから、其れで構わないと……本来、権利は其方のものですから。」
 其の台詞に、遺産相続、と言う単語が浮かんだ。
 此だけの土地と屋敷だ。不思議な事ではない。
(本来、)
 其れが気になりはしたが、其れからは相槌が続くばかりだった。
 最後に、「失礼します、」と告げ、受話器を置く。
 再発した気まずさに、又グラスを取った。



「なあ、此の家、どうなるんだ、」
 彼が部屋に戻ってくると同時に、「悪い、聞こえた。」と前置きして尋ねた。
 彼は少し驚いた様な顔をして、
「さあ、」
 すぐに、元の表情に戻った。
「お前は、」
「出て行くよ。此処は、俺の家じゃないから。」
 自分自身に言っている様に聞こえた。
「先刻、権利がどうの言っていたよな、」
「ああ、先生に子供はいないから。少し遠い親戚になるけど、其の人のものになる。
「お前は、」
 先刻の遣り取りを思い出す。
 少なくとも、彼は「本来」と言った。
 本来、其方の権利だ、と。
 ならば、
「知らない。」
「……」
「何とかなるだろ、今迄だって、そうやってきた。」
「なあ、」
「そんなのは、どうでも良いんだ。」
 僅かに、微笑む。
 其れは、此の短時間で彼が見せた数少ない表情の内、最も無機質な笑みだった。



 掻き消された疑問が其のまま残った。
 お前は、先生の死を泣く事が出来たか、
 そうであればいいと思った。



 柱時計が十一時を打った。
「まずい、忘れてた。」
 一気に現実に引き戻された。
 明後日には、締め切りがあるのだ。
「どうかしたか、」
「あー、レポートがあったんだよ、忘れてた。悪い、長居しちまって。帰るわ。」
 皿に残っていたクッキーの最後の一つを口に放り、噛み砕きながら立ち上がる。
「又、改めて来ても良いか、」
「ああ、別に構わないけど。……今週中なら、」



玄関迄送られ、靴を履きながら、「此処迄で良い。」と告げる。
「なあ、あんた、名前は、」
 戸を開けようとした所で、唐突に彼が尋ねた。
「……言ってなかったか、」
「言ってない。」
 そうだったか、と思い出す。確かに、名乗った覚えは無かった。
「ゾロ。ロロノア・ゾロだ。」
「ふうん、」
「お前は、」
 そう言えば、此方も聞いていなかった。
「サンジ。」



 戸を開けると、玄関から続く長い廊下に夜風が流れ込んだ。
 尚も心地良い風に吹かれながら帰路につく。



 当然、其の夜中の作業が実を結ぶ事はなかった。



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