第一景 今宵水の面
七月も半ばを過ぎた頃、
梅雨明けと同時に益々厳しくなった陽射しが、嘘の様に感じられる夜。
駅から自宅までは歩いて十分程。
平生は面倒に感じる其の道のりも、其の日は苦にならなかった。
ただ、期末の時期を迎え突然増えた鞄の中身が、重い。
こうなるのが嫌だったから、夕飯時を逃しても、図書館で作業を全て終わらせたかったと言うのに。
(あの野郎……)
何が悲しくて、人の恋愛話に付き合って閉館時間を迎えなければならないのか。
(別れようがどうしようが、俺の知った事じゃねえだろ……)
あの、何だかやたらと長い鼻を思い出すだけで腹が立つ。
大体、あれでは相談ではなく只ののろけだろう。
ともあれ、そんなどうしようも無い理由でレポートは半分も終わらず、明後日に迫った締め切りに溜め息を吐くしか無い。
決して大きな駅ではない。
何とか快速が止まるという程度で、近くには大型のスーパーが辛うじて一つ。
だが、実際に生活するならばかえって此位の方がやり易いと言うのも事実だ。
駅ビルには、悪くない総菜屋があったのだが、時刻はとうに九時を回っており、当然の如く既に閉店していた。
空腹は峠を過ぎていたから、アパートの近くのコンビニで適当に済まそうと諦めもついた。
駅前のバス停に並ぶ人混みを抜けると、すぐに閑静な住宅街に入る。
時折、遠くで電車が走る音が響く他は、殆ど何も聞こえない。
何処か湿気を含んだ、梅雨の名残の様な風が心地よい。
月は完全に雲に隠れ、其れにも関わらず、道は歩くのに苦労しない程度に明るかった。
振り返れば、大型集合住宅の部屋それぞれの灯りが、夜景と呼ぶに相応しい彩りを見せる。
初めて其れに気付いた時は多少驚きもしたが、其れからとうに半年を過ぎた。
今更の話だ。
ふと、視線の先にぼうと光る何かを見つけた。
街灯にしては位置が低すぎる。
僅かにぼやけている、今宵隠れた月の様な、光。
其れが、時代錯誤的な提灯の明かりであると気付くのに時間はかからなかった。
近付くにつれ、其の周囲の様子も明瞭になってくる。
家、と言うよりも、屋敷という方が相応しい様な日本家屋である。
其の門前に、一人の青年が立っていた。
年は自分と殆ど変わらない。
身長も同様であろう。
しかし、随分と細身の印象を受けた。
其の身体を包む喪服の為だけではないだろう。
喪服の黒と、夜の暗闇の中でなお鮮やかな金髪が映えていた。
容貌は、俯いた姿勢と長い前髪の為に全く見えない。
(成る程、葬式か……)
提灯に入れられた家紋と、僅かに漂う線香の匂いに合点がいった。
此の様な作法を見たことはないが、同じ仏教でも宗派や土地でこういうものは大きく変わる。
時刻が時刻だけにどきりともしたが、其れ以上の驚きはなかった。
しかし、好奇心にも満たない軽い気持ちで目を遣った、門の柱に貼られた故人の名前に、足が凍り付いた。
「……」
呆然と、口の中だけで呟く。
其の音に、門の前の青年が顔を上げ、此方を向いた。
「先生を知っているのか、」
しっかりとした、何処か冷たい声だった。
其れが、妙に耳に残った。
「ああ、……昔、世話になった。」
短く答える。
数秒の沈黙を挟んで、
「そう、か。なあ、焼香だけでも、あげていってくれないか、」
思いがけない言葉に、少し驚いた。
「出来ればそうしたいんだが……幾ら何でも此の格好じゃあな、」
ジーパンにTシャツ、おまけにサンダルだ。
レポートも有る事だし、後日改めて、と言おうとしたが、
「別に気にしねえよ。どうせ、俺しかいないから。」
そう言って、彼は提灯の日を吹き消した。
「良いのか、」
と尋ねると、
「……別に、何の意味も無いから。」
彼は冷めた口調で答えた。
何を指してそう言っているのか、尋ねたくもあったのだが、
「入れよ。」
門に手を掛けながら返された、有無を言わせぬ口調に、文句をまとめて飲み込んだ。
其の様子を、彼がじっと見ていたのに気付いた。
「何だ、」
「……別に。」
彼はぽつりと答えて、門の中に入っていった。
少し悩んだ後、其の後ろを追って門をくぐった。
其れが、彼との出会いだった。
今となっても不思議な、まるで誰かに仕組まれた様な。
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