第二景   沈静した浄福


 逃げる事を教えてくれた人は、余りにもあっけなく消えてしまった。
 凍てついたように何も感じようとしない自分自身が、何より恐ろしかった。



 とても、とても暑い日だった。
 呼吸をする度に噴き出す汗は、窓から流れ込む風に当たって消えて行く。
 平生は此の家に似つかわしい涼を与える其の現象も、暑さすら感知出来ない身体には、かえって生々しい自分の生を思い知らせるだけだった。



 冷たかった其の身体は、暑さの所為か、何処か生温かい。
「先生、」
 声が喉に張り付いて上手く出せない。
「先生、」
 浅ましい自分に吐き気すら覚える。
「先生、」
 皮膚の硬い、骨張った大きな掌が目に入る。



 一度だけ、其の両手が自分を支えてくれた。
 其れも、闘いなのだと。
 此の両肩が其の温度を忘れる事は無いのに。
 其の持ち主は全てを忘れてしまった。




 思えば、此の男が自分に与えたのは、全てを投げ出せる静寂、其れだけだった。
 今になってそんな事を思う。




 其れが、感情だと、教える声が聞こえた。



 蝉の声が其れをかき消す。
 そう言えば、今年初めて聞く鳴き声だった。



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